イノベーション・ジオグラフィ 2026 - イノベーションが「場」を育み、「場」がイノベーションを生み出す
本レポートの要点
- イノベーションの地理的分散が継続。成熟期、成長期、黎明期にある成長拠点がより広範囲に点在し、多様な状況を生み出している。
- 競争力のあるクラスター(産業集積地)は、規模の拡大ではなく「プレイスメイキング(魅力的な場所づくり)」と「差別化」によって定義。これまで以上に質が重視される傾向が鮮明になっている。
- 高品質の投資適格物件、それに付随する住宅、研究開発用スペースなどへの需要に対し、不動産市場は依然として深刻な供給不足の状態が続いている。
- AIをはじめとする最新テクノロジーと、潤沢な資金を持つ関連機関が同一エリアに集積し、連携を深めることが不可欠となる。
イノベーションは経済成長を牽引し、人口動態に影響を与え、さらには都市環境や商業用不動産市場を形成する上で、引き続き中心的な役割を担っている。
2000年代から2010年代にかけてはテクノロジー業界とほぼ同義と見なされていた「イノベーション」という言葉が指し示す範囲は、いま現在より広範に進化を続けている。金融や保険といった既存産業のデジタル化から、ヘルスケア、メディア、エンターテイメント、製造、教育に至るまで、経済のあらゆる側面で絶え間なく“再創造”を推進する人材・企業・研究機関などを包括する概念へと昇華した。
イノベーションが社会の隅々まで浸透したことで、成長クラスターが生まれる場所だけでなく、不動産市場や都市全体との関わり方にも根本的な変化をもたらした。かつてのようにHot(人気)市場やサブマーケットで企業が拠点を拡大させるのではない。現在のイノベーションは都市機能の高度化や、ライフスタイル・働き方の変化にも深く結びついている。
しかし、これは世界中で一様に起きている現象ではない。都市化の規模、大学や研究機関といった中核施設の存在、インフラの整備状況、そして流動性の高い優秀な人材を吸引し維持できる能力が、今後も世界中の都市間・都市内における変化の規模・形態を左右し続けるだろう。
希少性、変動性、そして競争を特徴とする不動産環境において、テナント、不動産オーナー、デベロッパー、行政機関に与える影響は多岐にわたる。具体的には、賃貸借契約の意思決定の迅速化をはじめ、投資先のさらなる地理的分散、より大規模かつ柔軟な都市再生に対応するための戦略的な土地利用計画の見直しなどが求められている。
イノベーションの発生源は広がり続けている
「拡散」が依然として主な潮流に
近年、その勢いはやや落ち着きを見せてはいるものの、コロナ禍をきっかけに、生活費が値ごろでライフスタイルを重視できる都市への移住の波は依然として続いている。その結果、世界的に確立された既存イノベーション市場と新興市場と境界線が曖昧になっている。その半面、世界的に重要な都市群と、それに付随する多様なクラスターからなる多層構造が形成されつつある。この多層構造の頂点に君臨し続けているのが米国のサンフランシスコ・ベイエリアであり、その資本力と人材の厚みにおける優位性は他の追随を許さない。
「Core(サンフランシスコ・ベイエリア)」を補完するのは、それぞれが世界をリードする専門分野を有し、世界経済にとって同様に重要な8つの「Ankers」である。具体的には、北京、ボストン、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ソウル、シンガポール、そして東京だ。ベイエリアとこれらの「Ankers」都市を合わせると、その生産額は12.8兆米ドル(2025年時点)にのぼり、過去3年間で約7,700億米ドルのベンチャーキャピタル投資と780億米ドルの海外直接投資(FDI)を呼び込んでいる。
「Core」と「Ankers」に続くのが「Reinforcers」である。人口約9,100万人を擁する18都市で構成される「Reinforcers」は、世界のイノベーション・エコシステムにおいて副次的な位置づけから不可欠な存在へと進化した。世界的な巨大都市(ロサンゼルス、上海)やテクノロジーの一大拠点(オースティン、ベルリン、シアトル、テルアビブ)、先進的な製造ハブ(ミュンヘン、サンディエゴ)、ヒト中心のライフスタイル都市(アムステルダム、コペンハーゲン、ヘルシンキ、ストックホルム、チューリッヒ)、大学都市(ケンブリッジ、ローリー)、そして著名なビジネス都市(シドニー、トロント、ワシントンDC)など、その顔ぶれは多岐にわたる。多種多様な面々が揃いながらも、これらの都市には共通点が2つある。1つはCoreとAnkersの合計値より3.8倍もの人口流入数を記録するなど、高レベルの純移入率を誇る点。そして、もう1つは人口と都市の規模の観点から主要都市と、それに続く副次的都市をひと続きにする存在である点だ。
人材集積地として新たに台頭する最大のグループが「Welcomers」である。過去3年間で5.2%という純移入率を記録しており、主要都市に比べて低い住宅コスト(アデレード、ブリスベン、ボルドー、カルガリー)、際立った文化的魅力(ブリストル、ナッシュビル、バレンシア)、そして有利な税制(オーランド、タンパ)を求めて多くの人々が移住先とする典型的なライフスタイル都市として認知されるまでに至った。イノベーションに関する実績は、より成熟した他のクラスターに比べて確立されているわけではないが、データ分析分野におけるブリストルのように、その存在感を増している都市が散見されるようになっている。
一方、成熟度と規模が異なる2つの生産型グループも存在する。1つは「Engineers」であり、先進的なハードウェア(台北、フェニックス、深圳)、ソフトウェア(ベンガルール)、工業技術(シュトゥットガルト、デトロイト、杭州)、エネルギー(ヒューストン)への持続的な投資に下支えされている。同様に、「Motors」も、バーミンガムの自動運転やハイデラバード、デリー、チェンナイのグローバル・ケイパビリティ・センターのように、やや小規模ながらも目を見張るべき成長を遂げている。
これら全てのクラスターを結びつけるのが、生産額と人材という両方の推進力にまたがる「Connectors」だ。ビジネスとイノベーションの間の溝を埋めるシカゴ、ダラス、フランクフルト、香港、マドリードといった都市は、高度人材の充実度、グローバル企業本社の集積度、そして広範なグローバルネットワークから多大な恩恵を受けている。
「Connectors」に続くのが「Vanguards」である。これらの都市は、草創期を過ごす多種多様なイノベーションエリアの集合体であり、他エリアからの波及効果や、廉価なコストを求める世界的潮流によって最も多くの恩恵を受ける可能性を秘めている。同グループには、アーメダバード、インディアナポリス、ラスベガス、メキシコシティ、ポルト、サンパウロなど、多種多様な都市が名を連ねる。
「場(プレイス)」主導のイノベーションの台頭
「場」が新たなイノベーションクラスターの成長と方法を決定づける
かつてない勢いと規模で、多くの都市で「イノベーション」が勃興する中、人材やテナント企業を惹きつける手段として重要視され始めているのが、「場(プレイス)」そのものが提供する価値である。事業規模、業種、所在地を問わず、多くの企業は立地選定において極めて詳細な分析を行うようになっている。特に不動産に関する意思決定を、単に都市や職場という視点だけでなく、都市の「建物環境」全体を見据えて検討しているのが現状だ。「その場所らしさ(センス・オブ・プレイス)」、アメニティの充実、そしてアクセシビリティ(製品・サービスなどの利用しやすさ)を最大限に高める超高精度の立地戦略の事例は、成長が鈍化し、構造的な空室率が高く、企業の拠点拡大が少ない既存市場において顕著である。
イノベーションと「場」は密接に絡み合っており、都市再生・都市開発を成功に導くための新たな指標「イノベーション・スコア」は土地利用効率、人口密度、交通インフラ、非居住用土地利用の分布といった「建物環境」に関するデータを重ね合わせることで見出すことができる。高密度化する都市機能と、革新的な人材や生産による都市の成長軌道とのバランスを理解することは、次世代のイノベーション・経済成長クラスターを創出するために不可欠である。
これら次世代のクラスターは、すでに具体的な姿を形作り始めている。例えば、アトランタのミッドタウンでは、急速に高密度化する都心部において開発が進められた「テック・スクエア(テクノロジー区域)」がコンピューティング技術を基盤とした教育・研究拠点として機能している。これは、米国、オーストラリア、カナダの他都市が低い都市密度と住宅不足という課題を抱えながらも、強固なコミュニティへと変貌を遂げる可能性を秘めている状況と酷似している。
一方、人材豊富なアジアの都市では、すでに都市密度が高まりつつあるアジアの都市では、豊富な人材層を背景に、先進的な製造業や研究開発の集積を目指し、新たに都市機能を強化する動きが鮮明になってきている。具体的には、シンガポールの「ジュロンレイク地区」や香港の「新田(サンティン)地区」などが好例だ。注目すべきは、これらの新興エリアではサステナビリティやオープンスペース、複合用途、建物デザインを既存エリア以上に重要視し、開発計画に取り入れている点だ。
これと同様のパターンは「生産」に焦点を当てた地域でも見られる。例えば、ベルリンの都心西部に位置する76haもの旧工場跡地を利活用する大規模再開発「ジーメンスシュタット・スクエア」では、AIやデジタルモビリティ産業に加え、数千戸の住宅を中心とした複合用途の街区へ生まれ変わった。また、ソウル郊外の龍仁(ヨンイン)市では、4.2km2超の街区を世界最先端の半導体開発工場を中心としたコミュニティへと再開発する計画が進行中。投資総額は84億米ドル超にのぼる。加えて、インド、中国、そして日本の都市でも、同様の開発パターンが見られる。
高品質なオフィスの供給競争が激化
テナントニーズへの対応力が市場の行方を左右する
コロナ禍がもたらした「働き方の構造変化」は過去100年でも最大級ともいえる変革であった。この構造変化に対応するために数年を費やしてきた現在、世界の各都市はさらなる喫緊の課題…「高品質で魅力的なオフィスの供給不足」に直面している。
世界のオフィスストックのうち、2020年以降の竣工物件の割合はわずか11%に過ぎず、「Core」と「Anchors」に限定すれば9%まで低下する。テナント企業にとって短期的な見通しはさらに厳しい。例えば、パリやロンドンの中心部における新築ビルの空室率は0.9%、1.2%であり、極めて低水準で推移している。この「空室枯渇」状態は、世界の主要なイノベーションエリアに限った話ではない。「Academics」「Connectors」「Welcomers」でも2020年以降の竣工物件の割合は1桁台にとどまっている。
一方、このトレンドの例外として挙げられるのが海外直接投資(FDI)主導のハブ…すなわちインドと中国の各都市であり、近年急成長を遂げた東ヨーロッパやオーストラリアの一部の都市も当てはまる。インドのハイデラバード、ベンガルール、プネー、中国の広州や上海では、主要オフィスの30%以上が2020年以降に竣工している。旺盛なテナント需要に下支えされたインドのオフィス市場は予想よりも低空室率を維持している。例えば、ベンガルールのオフィス空室率は2024年に13.9%でピークに達した後、10.5%まで低下している。
需給のミスマッチは、不動産市場の回復に大きな影響を与えているだけでなく、賃借可能な物件が減少する中で床の獲得競争が激化し、オフィスの上位カテゴリーを中心に大幅な賃料上昇を引き起こしている。「Anchors」では平均賃料が1㎡当たり1,280米ドル超へと急騰。「Reinforcers」でも1㎡当たりの平均賃料が837米ドルへ上昇。対照的に「Vanguards」では1㎡当たり324ドルに留まるなど、エリアによる二極化も見られる。
金利上昇と物価高などによる事業採算性を課題に抱え、世界的に開発需要が冷え込む中、一部エリアを除いて、需給が緩み、空室率が上昇する可能性は低い。一方、行政の方針が新規開発ではなく既存建物の改修を重視するエリアでは、リスクを許容する一部のデベロッパーが多大なメリットを得る可能性がある。この傾向は、旺盛な需要に対して供給が追いつかず、構造的に空室率が超低空飛行で安定している欧州の一部都市で顕著になると予想されている。
イノベーションエリアは資本を惹きつけるが、その度合いは一様ではない
資本は新たな優良市場へ向かう
投資適格な商業用不動産の存在と、その流動性ほど、イノベーションと明確に連動する指標は皆無である。イノベーション・スコアの総合点における上位市場は、下位市場に比べて3.3倍もの投資活動が行われている。一方、イノベーション・スコアの上位10都市の投資額は、それに続く28都市の合計額を上回る。このように、二次市場の成長と、既存の主要都市への資本の集中と二次市場の成長の間で行われる“綱引き”は、世界のイノベーション・エコシステムを定義づける大きな特徴となっている。
多くの都市…特に米国以外の都市は、商業用不動産投資の規模に比して厚みのある国内資本が「イノベーション」の面で高い実績を上げている。機関投資家、年金基金、デベロッパーが立地的なポートフォリオ戦略の多様化を目指す中で、これらの市場は「次の投資先」として恩恵を受ける最有力候補となる可能性が高い。
過去3年間の投資額が15億-60億米ドル程度の市場のうち、北欧州の都市がイノベーションと投資活動の活発さの比率で見ると際立っている。特に、コペンハーゲン、アムステルダム、ブリュッセル、ダブリン、フランクフルト、ミュンヘンが顕著だ。居住性、都市再開発、アクセシビリティといった提供価値をさらに磨き上げることが、これらの都市への資本流入を加速させるだろう。また、都市部での持続的な人口増加も同様に資本流入を後押しする要因となりえる。
研究開発(特にAI分野が挙げられるが、限定されない)と資本との物理的な距離を縮める「同一地への集積(コ・ロケーション)」もまた、極めて重要だ。「Core」と「Anchors」は、論文発表数で世界のAI研究の約34%を占めているが、集積度の点では、大学や研究機関を核とする小規模な都市がリードしている。サンフランシスコ・ベイエリアとボストンでは住民100万人当たりの論文発表数は181本であったが、オックスフォード、ジュネーブ、ピッツバーグ、ケンブリッジは360本以上となった。これらの「研究の巣」と潤沢な国内資本が結びつき、オフィスやラボ、教育施設、住宅開発のための追加投資が行われることが、都市の競争力を維持するために必要不可欠となる。
イノベーション経済における勝者となるために
先を見越し、戦略的に思考する者こそが未来の勝者となる
イノベーション経済の変化のペース、そしてそれが商業用不動産市場に与える影響は、依然として急速かつ、変動性や不確実性を伴う。テナント、投資家、デベロッパー、行政機関のいずれであれ、新たな機会が「どのように、なぜ、どこで」生まれるのかを理解する者こそが、この新たな環境に最も効果的に適応していくことになるだろう。
テナント企業の視点からは、需給の逼迫とそれに伴う賃料上昇圧力が立地戦略を左右する最大の要因となるだろう。アメニティが充実し、各種機能を完備したエリアで働きたいという願う社員は非常に多い。この期待値に対して、すべてのテナントは現行の自社ポートフォリオがどの程度満たすことができているかを評価しなくてはならない。
事業成長を第一義に掲げる数多くの中小企業は、魅力的なオフィス床を確保するために、迅速かつ果断な行動が求められる。一方、自社拠点の最適化を望む大手企業は、新築供給床が枯渇し、まとまったオフィス床を確保できない中、オフィスレイアウト・設備に多額の投資をしなければならなくなるだろう。
デベロッパーは、都市再生や老朽化不動産のリノベーションなどを通じて、魅力的な環境を供給しなければならない。個別不動産の魅力づけを行い、多くの人々がそこに「通勤する」ことを目的とするデスティネーション化に成功すれば、高稼働とより高い賃料収益をもたらすだろう。そして、それは自社ポートフォリオを再構築し、より新しいタイプの資産への投資を検討している機関投資家の関心を集めることにつながる。デベロッパーとその資本パートナーは建設費の高騰に直面する中、市場のタイミングを正確に読み、迅速に行動する必要がある。需要が拡大しているものの、迅速かつ正しい行動力が事業の採算性を決定づけるだろう。その一方で、多額の設備投資を行わなければ保有不動産が瞬く間に「座礁資産」に陥るリスクも見逃せない。
行政機関は、長期的な都市計画を通じて、人材市場や重要な研究・教育機関と連携することで産業が育成され、クラスター化を推進できるような「街づくり」を可能にすべきだろう。都市計画の枠組みは、産業の核となる不動産の周辺における住宅供給量の最適化、交通至便性の強化、公共空間の充実、そして複合的な土地利用に目を向けるべきであり、こうした視点は国内外の競合都市に対する競争優位性に貢献する。また、国や地方自治体は先進的な都市計画を実現するために「開発利益還元(バリューキャプチャー)」のような資金調達スキームの導入・拡充を検討すべきだろう。最終的に先見性のある都市計画はイノベーションクラスターの恩恵を享受するだけでなく、かつてないほどの分散化・多様化を特徴とするこの時代において、都市が競争力を維持し続けるための源泉となる。